最初の薬剤耐性菌論文と宇田川哲先生のこと

掲載日:2020.10.19

私は農林水産省動物医薬品検査所に入所して5年目の1979年7月に、国際協力事業団(現国際協力機構;JICA)のタイ国家畜衛生改善計画(プロジェクト)(https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/10507317.pdf)の細菌学の専門家として、1年間タイ南部家畜衛生センター(センター)に派遣されました(写真)。若干27歳で当時のルールによりJICA専門家になるには大学卒業後に5年間の実務経験が必要でしたので最年少の専門家ということになります。このプロジェクトは東北部のパクチョンを拠点とする口蹄疫の診断とワクチン生産を実施するものと、南部のツンソンを拠点とする家畜伝染病の診断を実施する二つのチームで構成されていました。私はツンソンに派遣され、チームリーダーは千葉県家畜衛生研究所(現在の中央家畜保健衛生所)の所長をされていた宇田川哲先生でした。そこで取り組んだのが南部地区で飼育されている牛と鶏から分離した腸管常在性大腸菌の薬剤耐性調査で、実はこれが私の主導する最初の薬剤耐性菌に関する調査でした。後年に薬剤耐性菌に関する業務がライフワークとなるなど露ほども思わない時のことでした。派遣前から在タイ中に何かまとまった調査研究をしたいと考え、ブルセラ病調査と薬剤耐性菌調査に関連する器材や試薬を持参していたのです。今回は私が初めて論文としてまとめた薬剤耐性菌調査の概要と、その後の人生において大きく影響を受けた共著者でありチームリーダーであった宇田川先生について紹介したいと思います。

赴任したツンソンはナコンシタラマート県にありバンコクから700km以上離れたマレーシアとの国境に近い町で、バンコクからシンガポールまで走る国際列車の停車駅でもある要衝の町でした。夕方にバンコク駅から川崎重工製のマニアには垂涎の前近代的な国際列車に乗ると、早朝にツンソン駅に到着しました。当時のタイ南部は反政府ゲリラの活動が盛んで、強盗も日常茶飯事の場所でした。在任中に勤務するセンターが反政府ゲリラの集団に襲撃され、JICAが供与した車両や顕微鏡などの器材が盗難されるという事件もありました。町の周辺は熱帯林の中にゴム農園と家畜を飼育する農家が点在し、高床式のタイ独特の家屋がいたるところに見受けられる典型的な南部の田舎町でした。南部のためか肌の色の黒い人が多く、近郊には仏教国であるタイには珍しくイスラム教徒だけの町もありました。また、ツンソンに近いリゾート地であるソンクラ海岸は第二次世界大戦のマレー作戦で日本軍が上陸し多数のタイ人が死亡した悲劇の地でもあり、年寄りの中には反日感情をむき出しにする人も見受けられました。

ツンソン郊外に地元農民を育てる公立の農科短大があり、そこで平飼されていた肉用鶏から糞便を検査材料として採取しました。また、同じ地区の複数の農家で飼育されていた肉用牛の糞便も検査材料としました。今から考えると採材場所が少なく動物数も少ない調査であり、タイ南部を代表する調査とはとても言えるものでなかったと思われます。しかし、プロジェクトの主業務は調査研究ではなく、細菌検査室を立ち上げカウンターパートであるタイ獣医師へ細菌学の技術移転することであり、採材から結果をまとめるまで指導する必要があったのです。糞便検体を採取し、それから大腸菌を分離し、細菌の生化学的性状を調べて同定検査をしました。それで約200株の大腸菌を分離し、寒天平板希釈法により最小発育阻止濃度を求めました。当初、タイの獣医師はどことなく専門家である日本人の研究を手伝っているとの感覚が強く、朝の始業時間には遅れるし、実験の空き時間になるとどことなく居なくなって、適当な時間に戻ってくるため、試験が大幅に遅れてヤキモキしたものです。その度に怒り心頭で文句を言うのですが、先方は何食わぬ顔で「マイペンラーイ」(大丈夫だよ)と笑顔で答えるには閉口したものです。出張時もしかりで、何時でかけ、何時戻るかが上司でさえ不明で、会った時に検査のことを話すと「マイペンラーイ」と笑顔で答える繰り返しでした。後年、大学で研修生や共同研究者としてタイの獣医師と接触する機会がありましたが、当時のタイ人が持つ大らかさは一変し、時間は守るし、仕事に対する責任感も格段に向上していると感じました。現在は当時の経済力から考えられない程の力を持つ国になっていますし、それと並行して獣医師の知識や技術レベルも格段の開きがあると感じています。いつしかタイ人との会話の中で「マイペンラーイ」との言葉を聞く機会も減ったように感じています。そんな耐性菌調査の作業中で最もタイ人獣医師が関心を持ったのが薬剤耐性プラスミドの接合伝達試験でした。耐性遺伝子が大腸菌から大腸菌へ伝達する現象に興味津々であり、彼らの知的好奇心をくすぐったようです。調査結果は鶏由来大腸菌はテトラサイクリンと、ストレプトマイシン、サルファ剤の3剤耐性株が多く、24%の株が薬剤耐性を伝達しました。一方、牛由来大腸菌は21%がテトラサイクリンかサルファ剤に単剤耐性を示すに過ぎませんでした。これも抗菌薬の使用実態を反映する結果であったと考えられました。帰国後にタイで初めての耐性菌調査であることから論文としてまとめようと考え、英語論文も考えたのですが調査内容が不十分ということもあり、結局は日本獣医師会誌に公表しました。これが私の主導した初めての薬剤耐性菌調査に関する論文となりました1)。2006年に科研費の海外調査で再度タイの肉用鶏由来腸球菌を調べたところ、多剤耐性化がさらに進んでおり、フルオロキノロン耐性株も5.4%に認められました2)。経済発展を遂げ、抗菌薬の使用量も増加した結果と思われました。

この調査において検体の採取や試験の実施について、非常にお世話になったのが共著者の宇田川先生でした。当時の日本人チームは、リーダーが宇田川先生で、病理学を担当していたのが広島県の家畜保健衛生所を定年退職したY先生、寄生虫学が慈恵医大を退職して参加されたN先生と私の4名の長期専門家でした。ウイルス学は短期専門家として多くの方が交互に参加されました。宇田川先生は非常に温厚な紳士で、常に獣医師のみならず獣医補(獣医師が少ないため、注射や採血など特定の獣医療行為ができる資格のある獣医助手)や運転手などに対して常に目配りをしており誰に対しても非常に親切に対応されておりました。非常に寡黙な先生で仕事以外では書き物か読書をしていることが多く、毎日、英字新聞(Bangkok post)を隅から隅まで読むこととBBCニュースを聞くことを日課にされていました。当時、私が最年少で住まいも近かったので、毎朝宇田川先生のお宅で一緒に朝食を取り、私の家に置いてあるJICAの車を使って、私の運転でセンターに通勤しておりました。昼もセンター職員と一緒に小型バスで町にでて、一緒に昼食を取り、帰りも自宅にお送りしていました。一端、自宅に戻ってシャワーを浴びてから宇田川先生宅で一緒に夕食をとることになっていました。このように家族以外で非常に長い時間を共に過ごす経験はなかったのですが、夕食時にビールを飲みながら聞く先生の話は非常に印象深く今でも記憶に残っています。先生は鹿児島高等農林学校(現鹿児島大学)獣医学科を卒業して直ぐに軍隊に入隊したそうです。終戦時に関東軍に所属し、外地から帰国できると思っていたところ、理由も分からずシベリアに抑留されたそうです。極寒の地での不当な待遇を生き抜き、終戦の4年後の1949年に復員できたそうです。先に述べたように先生は温厚な紳士でしたが、繰り返し言われたことはロシア人を決して信用してはダメという言葉でした。捕虜として言葉にはできないような経験をされた先生の言葉には説得力がありました。人を批判することがない先生でしたので、この言葉が非常に心に残っています。どれほど過酷で理不尽な毎日を過ごされたのかと想像できる思いでした。青年期のそんな体験から千葉県職員を退職した後は、気候の良い熱帯で開発途上国の発展に貢献したいと思うようになったと聞きました。また、JICAで貰ったお金はこの国のために使うと考えていたようで、センター職員の親睦のためにたびたび全職員を招待した夕食会を開催していました。ある時、獣医師の財布が盗まれるという事件が起こったときも、まだ獣医師の給料が安い時期で困っていたところ、そっと誰にも見られないようにお金を渡している姿を見たこともあります。自宅には食事や洗濯・掃除などの身の回りのことを面倒見てくれるメイドを雇っていたのですが、その妹も引き取り、小学校しか行っていないメイドには何か身に着く技術をと洋裁学校に通わせることもしていました。ある時、専門家の一人がタイでの生活に馴染めず、タイ料理も受け付けないこともあり、どう見ても健康とは思えない状況になりました。段々と精神的におかしくなってき始めた時に、直ちにJICA本部と連絡を取り、当時は親族が亡くなっても帰国できないようなルールでしたが、毅然として帰国を命じたこともありました。リーダーとしてプロジェクトに迷惑をかけられないことと、専門家の健康を思った行為と、外見はいつもと同じ穏やかな表情でしたが宇田川先生の苦労の片鱗を見る思いでした。センターの獣医師や職員に絶大な尊敬の念を抱かれていた先生ですが、任期の途中に病のため辞職して国内で治療を受けることになったことは非常に残念に思っています。1年間を共に過ごしただけでしたが、若輩者の私にとって人間の器というものを教えてもらいましたし、人間としての矜持を保つことの重要性を教えていただいたようにも思います。

以上、私が最初に実施した耐性菌調査の概要と、一緒に調査をしていただき人間として敬愛する獣医師の先輩の話を書かせてもらいました。耐性菌調査は今から考えると、ゼミ生の卒論にも到底及ばない内容ではありましたが、細菌学の調査の流れを通じてタイ人獣医師に対して教育する非常に良いテーマであったと思っています。現在、多くのタイ人獣医師が日本人獣医師と共同研究を実施していますが、その原点となった調査ということで意味があったと考えています。また、調査を通じて素晴らしい人生の師である宇田川先生と知り合ったことも、記憶に残る調査となりました。宇田川先生は鹿児島大学農学部の同窓会誌によれば2013年に93歳で天寿を全うされたと書かれていますが、タイから帰国後に、「私が見たタイ国 南タイにおける二年間の記録」と「タイガとマローズの中で 捕虜の見たシベリア」の2冊を自費出版されています。在任期間中に非常にこまめにメモを取っていたことを知っており、帰国後にまとめようと思っていたものと思います。この2冊の著作を見ると、これまでの人生でシベリアとタイでの生活は特別に印象深い出来事であったことが伺われます。

 

1)田村 豊, 宇田川哲: タイ国におけるニワトリおよび牛由来大腸菌の薬剤耐性調査.

日本獣医師会誌 35:402-405, 1982.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvma1951/35/7/35_7_402/_pdf/-char/ja

2)Usui M, et al: Antimicrobial susceptibility of indicator bacteria isolated from chickens in southeast Asian countries (Vietnam, Indonesia and Thailand), J Vet Med Sci 76:685-692, 2014.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvms/76/5/76_13-0423/_pdf/-char/ja

 

 

現在のタイ南部家畜衛生センターを正面から見たところです。右側の建物は当時のままで、1階玄関の左が細菌検査室でした。背面に官舎が続き、獣医師の家はそれ以外の職員と比べて遥かに大きいものでした。