乳房注入剤が青かった理由

掲載日:2019.01.07

近年、家畜に使用される抗菌薬により出現する耐性菌が注目されていますが、以前は畜産物中の残留問題が大きくクローズアップされていました。牛乳も例外でなく簡単に残留を防止する目的で抗菌薬を主成分とする乳房注入剤に全て青色色素を含有させていました。この方法は色素を製剤にただ混入させただけであり、主成分である抗菌薬の薬物動態と一致するものでないことから科学的な問題点が指摘されていました。しかし、牛乳からの色素の消失と抗菌薬の残留がおおむね一致しており、当時としては十分に有用な方法であったと思われます。2013年に青色色素を含有しない抗菌性乳房内注入剤が承認され、現在は色素の含有はメーカーが任意に選択できることになっています。そこでこの抗菌性乳房注入剤に青色色素を含有させることになった経緯と現状を、すでに当事者が鬼籍に入っていることから私見を交えて紹介したいと思います。

そもそも畜産物への農薬や抗生物質などの残留が社会問題になってきたのは、1965年頃といわれ、丁度その時期に青色色素の含有が決まったとされています。それではそのきっかけになったのは何だったのでしょうか?これは私独自の見解なのですが、英国のSwann Report(1969)1)にあると考えています。これは一般に家畜に使用する抗菌薬によって薬剤耐性菌が生まれ、食肉を介してヒトの健康に影響すると警告した最初の公的な報告書とされています。しかし、長文の内容を良く読んでみれば、多くの部分は耐性菌に関する記述であるものの、残留問題にも触れているのです。その中の、第XII章結論及び勧告の要旨の(e)抗生物質とその応用に関する諸問題の調査研究の12.33に「乳房内注入剤に加えることができ、また牛乳中のものについては迅速でかつ簡単に検出できる適当な指標に関する研究は、今後とも続けるべきである」と勧告しているのです。そもそもSwann Reportの重要性に逸早く着目したのは、当時の農林省畜産局衛生課で国際的な業務を担当していた緒方宗雄先生であるといわれています。私がタイでの家畜衛生改善計画の専門家で赴任している期間に、先生は調査団でタイに来られたことがありました。その時の雑談の中でタイの牛乳における抗菌薬の残留に関して話をしていると、自身が抗菌性乳房注入剤に色素を入れることに関与していたと言われたことが今も鮮明に覚えているからです。したがって、緒方先生の発議で開催された業界団体も加えた会議で、色素を含有するということが決定したものと思います。色素を含有させるというアイディアがどなたから、どのような経緯でもたらされたのか、今では知る由もありません。いずれにしても1970年の局長通達2)により、牛乳の休薬期間は72時間にするとともに、乳房炎治療用の抗生物質の乳房注入剤には青色1号を1回注入量当たり25mg添加することを義務付けました。この方法は簡便に青色に着色している乳は出荷しないようにし、農家のうっかりミスを防止するには絶大な威力を発揮したものと思います。ただ如何せん色素が主成分に結合しているわけでもないことから、抗菌性乳房注入剤が薬事審議会で議論されるたびに、委員から度々指摘され事務局として冷や汗をかいたことが思い出されます。緒方先生によると低開発国の中には、日本の色素を含有する方法を絶賛し真似したいと申し出た国もあったと聞きました。

その後、動物用医薬品の再評価により、一部の乳房注入剤については、抗菌薬の残留が72時間を超えることが判り、72時間を超える新たな休薬期間が設定されました。これにより、青色色素の含有が必ずしも残留対策にならなくなり、この簡便で迅速な抗菌薬の残留を調べる方法も使命を終えることになりました。これまで色素を含有させるという代替措置があるとの理由で、抗菌性乳房注入剤は動物用医薬品及び医薬品の使用の規制に関する省令(使用規制省令)の対象から外されておりました。しかし、上記の理由で使用規制省令の対象医薬品とし、乳への残留防止を徹底することが求められました。ただ、極めて有用な方法でしたので、臨床獣医師や農家から継続を希望する多くの声が農林水産省に寄せられたと聞いています。一方、動物用医薬品メーカーからは、①色素の着色と休薬期間に乖離があること、②色素添加に伴う製造コストの上昇、③海外の色素を含有していない優れた製剤が輸入できない、などの理由で色素の含有規制を廃止することが要望されました。さらに、乳業メーカーからは、残留検査体制の整備を進めていることから、色素含有の義務化は必要ないとの意見も出されたようです。私自身は規制緩和が進められ海外の製品が多く輸入されている状況の下で、乳房注入剤への色素含有規制は国内メーカーを保護する防波堤的な役割もあったと認識しています。また、耐性菌対策においても抗菌薬の使用量を抑える役割があったように思います。しかし、立場により色々な思惑や考えがあると思いますが、色素含有に科学的裏づけがないことが致命的であり、色素含有規制が緩和されることになったのです。つまり、青色色素の含有は任意とされ、色素を含有した抗菌性乳房注入剤と含有していないものの両方の流通を認めることになりました。使用者の選択の幅を広げることになるものの、同じ目的の製剤に二つの考えを適用することは好ましい話でないことから、将来的に色素なしの製剤に統一されるものと考えられます。

いずれにしても、残留防止対策を実行するのは畜産現場であることを考えれば、科学的でなかったものの、抗菌性乳房注入剤の色素含有規制は、それなりの意義があったと思われます。当然、休薬期間は精度の高い残留試験結果に基づいて設定されるべきものですが、過渡的で農家において実施可能な方法として、それもわが国独自に考えられた色素含有というアイディアは動物用医薬品の歴史遺産と呼ぶに相応しいものと考えます。なお、青色色素を含有しない乳房注入剤の承認の経緯に関しては、農林水産省から行政的な手続きに関する詳しい資料3)が公表されていますので参考にして下さい。

1)動物用抗菌剤研究会:英国における家畜用抗生物質の使用とその問題点 Swann Report(1969) (寺門誠致訳) 動物用抗菌剤研究会報 創立40周年記念号 No.35, 39-92, 2013.

2)農林省:乳房炎治療用注入剤の取扱いについて,昭和45年6月30日付け45畜A第3499号 農林省畜産局長通達.

3)山本欣也:青色色素を含有しない乳房注入剤の承認の経緯と適正使用の確保,家畜診療 61(19):643-647,2014.